新庄市の内科、循環器内科、呼吸器科、小児科

ドクター若連
ドクター若連

開院に寄せて

草那藝之剣ひかめく山車小屋、水無月、鋸笛で若連契る
(くさなぎの つるぎ ひかめく やたいごや みなづき きょてきで わかれん ちぎる)

皆様初めまして。このたび、ハートクリニックひろのを開院させて頂きます廣野摂と申します。どうか宜しくお願い申し上げます。

親から子へと受け継がれる新庄祭り

「あの人誰だっけ?」「ほら、廣野医院の息子さんよ、今県立にいるよね」県立新庄病院に勤務していた頃、よくこんな声が聞こえてきました。地元っ子に、こんなことを言わせておいて、本当に自分は故郷に戻ったと言えるのでしょうか? 私はそんな扱いは絶対に嫌でした。我慢ならなかった。

祭りが好き、山車(やたい)が好き、囃子が好き。七月は期待に心躍る季節です。ある日、押し入れの御詠歌集の影から、我が町内の古い写真と法被が出てきました。祖父が若連(山車作りを中心とした、様々な伝統行事を継承するための、町内有志連合)の中央に鎮座している、おそらく昭和初期の写真です。古い法被は、今の私の体格に驚くほどピッタリでした。思い切って山車小屋に行こうと決心しました。でも一人では恐くてとても行けなかった。そんな時、社交的な娘が一人いて、とても助かりました。

山車(やたい)

山車(やたい)

【娘】「何かやれることありますか?」 【皆、娘の方だけみて】「やっぺやっぺ、こっちゃ来い!」
「廣野さんだべ、俺のことおべった?、当然手伝わなんねべや」小学校時代の先輩が掛けてくれたこの一言は、手探りの私にとって唯一の光明でした。

新しい仲間たちと娘のおかげで、晴れて地域社会の仲間入りを果たした私ですが、さて、若連行事のたびに不思議な既視感を経験するようになりました。小学校六年間でさえ重なっていない仲間たちの風貌・人相に、懐かしさを感じるのです。
【Aくん】「廣野さん、今回の花もらい(山車制作のための寄付集め)は俺と一緒に大通りの左側チーム頼むな」
【Bさん(四十年前)】「廣野くん、今回の花もらいは俺さついて歩いてけろな」

…タイムスリップしたようなこの感覚……そうか、AくんはBさんの息子さんだったのか! この瞬間私は、親から子へ、世代から世代へと受け継がれる新庄祭りの長い伝統を肌で感じ感激しました。

勤務医生活と地域活動の両立

一方、勤務医生活と地域活動の両立は難しいものでした。私は新たな苦悩を背負い込むことになりました。所詮、若連というものは、一~二回手伝いにいけば存在を認めてくれる、そういう世界ではないのです。映画「ラストサムライ」で、結果的に明治維新から取り残されていってしまった集落…若連にはそんな臭いがあります。「一回手伝ったくらいじゃ誰も口聞いてくれねーしよー、俺そういうの嫌だから絶対祭りには関わんねのよ、先生も気を付けた方がいいぞ」
病院赴任時に、歓迎の酒を酌み交しながらアドバイス(?)してくれた先輩が何人かいたことを思い出しました。

「新庄祭りはそれでいいなだ(いいんだよ)!田舎なんだから、偏屈やろどもだらけで当たり前だべ。照れでんなよ。入っていげ。おめは新庄の子どもだべや」
夢の中の祖父に突き動かされ、私は可能な限り連夜のように、鋸の音が響く若連小屋に行き、世間話をしながら、山車制作を手伝うようになりました。所詮、廣野家は天保三年(一八三二年)に、新庄市在郷の萩野村(独特の祭り囃子で有名な地域)から、現在の下金沢町(山車製作を担当する地域)に分家してきました。いつのまにか私は、篠笛で名曲「二上がり」の練習まで始めるようになっていました。

山形県、最上郡全域を網羅すべく昼夜を問わず心血を注いでおられる先輩、同輩、後輩ドクター達がたくさんいます。今でも彼らのことを思うと涙が流れます。しかし日々大きくなる心の声を私は抑えられなくなっていました。「私の中にある地域社会はもっと狭い」

新庄病院時代、私は教育研修部長の職にありました。学生や若い医師達が、この町に定着してくれるように、魅力を伝え研修のお手伝いをするのが仕事でした。しかし、一度管外に出て行った若い医師達はなかなか帰ってきてはくれません。一方、山車製作に参加している一家の子供たちは皆、この町に帰ってきます。少子化の波から故郷を沈没させないために、我々は何をすればいいのでしょうか?私は一つ悟りました。地域活動を自らやらない親の背中を見て、将来地域を担う子供たちが育つ訳がないのです。若連に参加した数年前から、少しずつ自分の中で、そのような精神性が育っていったように思います。抑えられない自分の気持ちを肯定、正当化したかったのかもしれません。

地域医療の担い手として

とりとめの無い文章になってしまいました。これまで山形大学・山形県立中央病院・山形県立新庄病院において多くの患者様と触れ、総合内科・循環器・呼吸器の研修をさせて頂きました。新庄病院退職後は、介護老人保健施設「薬師園」において高齢者の持つ問題点を勉強しました。廣野医院院長であった父 典男が昭和35年に就任して以降、親子2代に渡って母校日新小学校管理学校医の栄誉を頂き、小学生達の健康状態把握と疾患の早期発見に努めさせて頂いております。
父 典男は今年4月、安らかに旅立ちました。次は私が「地域永続と子供達の成長を見守る番」と心得ています。もとより何の才能もありませんが、これまでの経験を生かして内科・循環器・呼吸器・小児科領域の地域医療に貢献していきたいと考えておりますので、暖かい眼、長い眼を持ってご支援頂けますよう切にお願い申し上げます。尚、目標は「梅ちゃん先生(朝ドラ)」、クリニック外観は(長年夢に描いていた)中庭付きの擬洋風建築、理念「傾聴とハート」を掲げましたことを追記し、ご挨拶に変えさせて頂きます。

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2018年9月 開院に寄せて
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